いつまでも迷い路

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仁王 サブミッション「呪われし分身」「竜の諸手」【動画あり】

アクション下手によるアクション下手の為の仁王プレイレポート。
第50回の内容は、東北編サブミッション「呪われし分身」と
そのクリア後出現の「伊達の諸手」

「呪われし分身」

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伊達成実(しげざね)鬼化と再戦するサブミッション。

メインミッション(サムライの道)あやかしの里に登場した時と
変更点は九十九状態になり、守護霊攻撃をしてくるところ。

鬼化した成実の特徴であるムカデ化した右手(プレイヤーの左手側)に
回避したり立ったりする立ち回りをするのを避ける。
全体を通して、成実の右側はムカデ手の連続攻撃が痛く、ガードは不可能。

遠距離では身体に刺さった刀などを投げてくる。
中距離だとこの後に、右手のムカデが何か吐いてくる。
よって、中距離が一番危険。

近距離で立ち回り、成実が攻撃してきたら右斜前に回避して
ムカデ右手>左手刀の攻撃をスカらせる。
背後に回っても、もう一度ムカデの手を振り回す挙動があるので
ここまで回避や防御を意識。

そして、背後から1~2発殴る。
その後はすぐにまた回避を用意。
間合いを開けたい場合は、ダッシュで思い切り遠距離に。

九十九状態以後は、ムカデの手を一定時間左右に薙ぎ払うような動きで
フィールドを往復する。
この動きが最も危険で、ダッシュで範囲から逃れたら、成実の後方から
成実の動きを追いかけるように立ち回る。

成実の前方180度は完全に危険な範囲で、一旦巻き込まれるとガードを
削りきられたり、回避しても巻き込まれ、落命確立UP。

目つぶしが有効なのは変わらないので、後半になったら
目つぶしから、九十九武器や強化アイテムを併用して、一気に倒したい。

参考動画


「竜の諸手」

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武将としての伊達成実(鬼化してない)、片倉重長の二人と戦うサブミッション。

重長は斧、成実は大太刀を使う。

どちらも大振りな武器だが、ややプレイヤーを追いかける度合いが高い重長から
倒すのがオススメ。

サブミッションが始まってもスタート地点付近であれば二人は出現しない。
よって落ち着いて準備するのと、落命しそうになったらスタート地点近くに逃げ込もう。
(リトライを楽にするため)

二人とも攻撃間隔が長い武器なので、二人同時でも慌てる必要はない。
重長が突出してきたところを狙い、攻撃を誘って、空振りさせ、ダメージを与えていく。

重長を倒してしまえば、成実を落ち着いて攻略するだけ。
いつも通り、攻撃を回避しつつ、後方に回り込み、1~2撃して離れる。

攻撃の切れ目を覚えて、欲張らずにダメージを与えていけば倒せる。

ダウンを取れる守護霊「蛟」「提馬鷲」「アストラベア」でダウンから追い打ち。
百舌鳥などの返し技でダウンから追い打ち。
(刀の返し技はダウンしなくなったの追い打ち不可。)
埋火でダウンから(以下略

という感じで、ダウンからダメージを稼いでいく戦法も有効。
ただし、二人同時にダウンしなかったり、
片倉重長がダウンした時、伊達成実が近いと追い打ちは難しい。

伊達成実の大太刀での攻撃は結構なダメージなので、無理は避けたい。

参考動画

武将紹介

以下、Wikipediaを引用、参考として編纂したものです。
伊達成実(1568~1646)
伊達家の重臣
人取橋の戦い」(天正13年1586年)では、蘆名氏を始めとする南奥羽諸大名の連合軍に追い詰められた正宗を逃がすため、500の兵を率いて奮戦し、存分に時間を稼いだ。
人取橋の戦い後、近習が火薬の箱に火を落とした事で滞在していた城が全焼。そのため成実の右手の指は火傷のため、すべてくっついてしまっている。
兜につけた毛虫の前立は、毛虫が「決して後ろには退かない」という習性にあやかったもの。成実の性格を垣間見させるものである。

1595年~1600年(関ヶ原の戦い)までは伊達家を出奔していた。
この出奔の期間、理由などには諸説あるらしい。

片倉景綱の説得などもあり、伊達家に帰参する。
慶長7年(1603年)後は、伊達家の重臣として仕え、79歳で亡くなる。
片倉重長(1585~1659)
片倉景綱(小十郎)の子。
小十郎という俗称は、片倉家党首が世襲していた。

仁王劇中では、片倉景綱は正宗の思念の中でのみ登場。
景綱は慶長19年に病死していることから、東北編(慶長18年)時は余命幾ばくもない状態。

慶長19年の大阪冬の陣では敵将を自ら打ち取る。
知勇兼備の将であり、「鬼の小十郎」と言われた。
ただ一軍の将でありながら、自ら刃を奮って武勇を上げるなどあるまじきこと。
と父の景綱には叱責されたという。

父景綱が伊達家の外交文章に多くその名を刻んでいることから、知将の家系という
イメージが作中に活かされている。